選び取った未来、選ばなかった未来
2024年12月08日
あの時の僕は、こちら側を選んだ。
足を切り、自ら不自由になるという残酷な未来。
義足なるものに賭けてはみたけれど、義足を使いこなせる保証なんてどこにもない。
松葉杖や車椅子での生活も覚悟していた。
外にはほとんど出られないからと、色々なものを諦めた。
あれも、これも。本当に色々。
そうやって残酷な未来を受け入れたのが功を奏したのだろうか。
実際には心も身体も健康になり、今では義足が元々の足のように使いこなしている。
もちろん、松葉杖も車椅子も必要ない。
我ながら思うが、これは出来すぎだ。
誰がこんな未来を想像しただろう。
僕の通う作業所には、足が悪くて装具での矯正が必要な人が何人もいる。
ほとんどの人は事故原因。
介助なしで歩けるものの、足取りが重くていかにも不便そうだ。
足を切った僕の方が機敏に動ける。
それはあの時、僕が選ばなかったもう一つの未来そのものだった。
最低限の手術で足を残す代わりに、悪い菌に勝つまで長い間入院を強いられる。
悪い菌との闘いに勝って退院したとしても、今度は装具を着けてのリハビリが待っている。
長期入院で筋力が落ちれば、足があっても歩けるようにはならない。
生活が不自由なだけでなく、身体も心も病んだままになるだろう。
今の自分とは、対照的。
もう一つの未来を選ばなくて良かった、と心底思う。
最近、少年だと思っていたあの人が実は三十路手前だと知って驚いた。
タイムカードの打刻機が故障して、今月からタイムカードがなくなった。
休憩時間に二階の相談室で過ごしたら寒くて仕方なかった。
誰とでも親しく話せる顔なし君を羨ましく思ったり。
そんな作業所での時間は騒がしくて小さな事件は色々あるけれど。
あの時の選択が正解だったと思えるほどには満ち足りている。
この今を、壊したくない。
マイナ保険証、使ってみた
2024年12月14日
今日はお母さんに車で送ってもらって、今年最後の定期検査。
市内にも積雪はあったが、車の雪を払ったくらいで交通への影響はない。個人医院への移動中は、時折青空も覗いていた。
個人医院へ着くと、待合室にクリスマスツリーが飾られていた。いくつかあるクマのぬいぐるみもサンタの衣装を着せてあって、すっかり年末モードだ。
寒くなったからなのか、患者の数は少なかった。受付も採血も診察もほとんど待たされず、いつものように1時間以内に終了した。
今回は受付でマイナ保険証を試してみた。ポイントキャンペーンの際にカード自体は作成していたが、これまで一度も使ったことがない。
受付の前に立つと、いつものように紙の保険証を出してしまう。ああ、これじゃなかった、とマイナ保険証も取り出し、とりあえず専用の端末に向き合ってみる。
まずは開始ボタンを押し、画面に表示された通りにカードを奥へ押し込む。すると顔認証や暗号番号の選択肢が示されるから、暗証番号を入力。その後は医療情報の照会についての同意を求めてくるから、ここは同意するを選び、手続き完了。
やってみるとわりと簡単だ。大袈裟なアラームなどもなく、静かに終わる。ただ、奥へ押し込んだカードが自動で戻ってこないのが難点か。
それと、自治体の発行する福祉医療費受給者証は今までと同じに提示する。マイナ保険証はあくまで保険証の部分だけで、他の証明書はカバーしないのは注意が必要だ。
今回マイナ保険証で受付をしたメリットはすぐにあった。
先生の診察の際にPC画面に過去の医療情報が表示されるらしい。だから、今月近くの歯医者にかかったことも記録されていた。
直近一ヶ月の情報だけとはいえ、こういう細かいことも先生と共有できる利点は大きいと思う。僕としては、マイナ保険証を拒否する理由はない。
で、今回のHbA1cは6.0。
これは僕が目標とする数字で変動幅も小さいから、上々の結果と言える。
血糖コントロールがうまくいく限りは健康を大きく損ねることはないだろう。
A型に夢を見るな
2024年12月21日
先日、作業所で福祉の方との面談があった。
その中で、比較的近い場所にA型作業所ができたから、そこへ行ってみてはどうか、と提案された。
しかし、僕の答えはNO。即答だった。
今のまま、この作業所に通い続けた方がずっとましだ。
A型作業所とは障害者就労支援事業の一つで、B型との違いは事業所と契約を結ぶことある。そのため最低賃金が保証され、各種の社会手当も受けられる。
そう聞けば雀の涙ほどの工賃しか充当されないB型と比べて良さそうに思えるだろうが、実はそうではない。A型作業所は不安定で、そこに人生を預ける気にはとてもなれない。
A型作業所が不安定なのは、その成り立ちが大きく関係する。最初にできたのが今のB型に当たる制度で、一般企業への障害者の雇用が思うように進まないため、後になって創設された。
一般企業なら多くの健常者に混じって働くことになる一方、A型作業所では障害者がメインになって働き、その上で事業所を継続させるだけの業績を求められる。
いくら一般企業で働く能力があっても、障害者として何らかのハンデがあるのは間違いない。そんな人が集まってまともな売上を得ようと思えば、できる仕事は限られ、利用者一人ひとりの負担も大きくなる。
結局、一般企業への就労とは程遠いうえ、福祉サービス的な側面も不十分で、なんとも中途半端。
事実、日本全国で障害者が解雇されたり、事業所が閉鎖されるケースのほとんどはA型だ。せっかくA型で働いても、事業自体が続かなければ何も意味がない。
それに、この先A型事業そのものがなくなるか、統合されるおそれもある。障害者は国の手のひらで転がされているだけなのが、残念ながら現状だ。
本当に就労したいと思うのなら、やはり一般企業を目指さなくてならない。それか、自分で事業を立ち上げるか。
いずれにしても、中途半端なA型に夢を見るのだけはやめた方がいい。
僕は、そもそも環境を変える必要性を感じていない。
今の作業所が自分に合うのもあるし、小遣い程度と工賃であっても不自由さを感じているわけでもない。それに本当の意味で体調が万全なわけでもない。
これは福祉の人にも話したことだが、どうしても体力は戻らない。昼から少しは身体を休めるなくてはならず、他の人と同じように時間を使えない。
糖尿病を克服して普通の人と同等に歩いたり動いたりはできても、こんなところにハンデがあるわけだ。
それが僕の、障害者である証左。B型作業所がベターだと考える理由でもある。
だから僕は、A型作業所に移る気はない。できるだけ長く、今の作業所に通い続けたい。
仕事納めに願う
2024年12月27日
僕が作業所に通いだして3回目の年末。今年はクリスマス会が豪勢に開かれた。
25日の午後から、B型と移行支援が合同で。まずは例年仕事納めにやっていたビンゴをやり、スタッフを含めた全員がそれぞれに景品を手に入れた。
その後はケーキを食べ、残った時間はゲームなどで盛り上がった。
雪の降らない穏やかな日和だったこともあり、終始和やかな雰囲気で、みんな笑顔だった。
一方、今日の仕事納めは通常運転。これという行事は特になく、作業も帰り時間もいつも通り。大掃除は最後に少しだけやったようだ。
普段と違うのは、あの挨拶があちこちから聞こえたこと。もちろん僕も、
「良いお年を」
と声をかけて作業所を辞した。一年間ご苦労さま、という気持ち。小雪が舞っていて、年末年始の厳しい寒さを予感させた。
全体的には楽しかったクリスマス会のその裏には、各人の現状が濃厚に映されていた。
まず全員参加のビンゴ。ポンコツ君はいちいちリアクションが面白い。あの子は自分で選んだ景品なのに、もうグズってる。あの人は独りぼやきが多すぎて不愉快すぎる。
今年奮発してくれたケーキは、いちごとチョコのプレートが載ったオーソドックスなショートケーキ。使い捨てスプーンを添えて紙皿で出し、ゴミはその場で回収するシステムだった。
僕はインスリンを打ってその場で味わったが、中には小箱に入れてもらって持ち帰った人もいたようだ。やはり、と言うべきだろう。食事制限を伴う人がそうだった印象。
計画されていたクリスマス会はそこまでだったようで、休憩時にスタッフが「これから作業に戻ります」と言った時はさすがに、それはないだろうと思った。いくらでも仕事がある、という言葉はとてもリアルだった。
結局ゲームで時間を潰すことになったが、即興なのでまとまりはない。百人一首で坊主めくり。黒ひげ危機一発。角の方でオセロ。お絵かき。トランプでババ抜き、神経衰弱。
僕は知的の子を含む5人でババ抜きをした。3回やって1回目は僕が惨敗し、あと2回も知的ではない人が負けるこの結果はなんなんだろう?
結果はともかく、一人の知的の子が3回目、カードを受け取ってフリーズしてしまったのは皆が驚いた。その分を他の人に渡して苦笑で済んだが、すぐに飽きてしまう性分なんだろうな。相変わらずの光景がここにもあった。
それとスタッフについても、絶対にいてほしかった人が欠けていた。全員が揃わないでクリスマスや仕事納めを迎える。これが一番寂しい現実だと思う。
仕方ないことではあるが、せめて年末くらい、と思うのは僕の我儘なのだろうか。
とりあえず僕はこの一年、定期検査を除いて全てこの作業所に出勤した。それが勤労者としては普通だし、障害者としては皆が求める理想である。
僕だけは、常にその理想の姿を貫きたい。来年も、またその先も、ずっと。
病気だったから今がある。未来がある。
2024年12月31日
僕の糖尿病は、生まれついてのものだ。というより、糖尿病は本来遺伝性の病気だから、僕のような人がいることは何も不思議ではない。
ただ、僕の場合はそうと気づかずに生きてきたため、何もかもがしんどかった。前半人生のあらゆる場面で倦怠感や疲労回復の鈍さに悩まされ、失敗することが多かった。
このまま死んでしまおうと考えたことも、一度や二度ではない。
30代で糖尿病の治療が始まってからもそこまで楽にはならなかった。治療行為の苦しみが増えて、今度は自分が何を目指しているか分からなくなった。
この時期の僕は、今の自分から見ても怖いくらいに異常な思考をしていたと思う。人生がうまくいかないことでヤケクソだったのかもしれない。
身体がきつすぎて心の制御もできなくなる自分の病気をどれだけ恨んだか。
この病気さえなければ学生生活はもっと明るかっただろうし、大学進学を諦めることもなかった。きっと僕は、高山市ではない都会で普通に暮らしていたことだろう。
だが、もし普通に生きていたら今の自分はいなかった。遠い場所で暮らすうちに家族が欠けていき、最後は生まれ育った実家まで失っていた可能性がある。いや、確実にそうなっていた。
もしもの世界で起きるその結末は、僕が最も嫌なものだ。身体は健康であっても心が深く抉られて、喪失感に苛まれる人生になってしまうだろう。
普通に生きていたらどうやっても最悪のシナリオを防ぐことはできない。やはり、僕が糖尿病で生まれることが必要だった。
長年苦しめられてきた糖尿病を克服し、身体障害者になりながらもこれが本来の自分だと思えるまでになったから、余計にその思いを強くする。
もしかしたら、僕はこうなることが生まれる前から決められていたのかもしれない。そう思えるくらい、これまでの人生が噛み合い始めた。
それは自分の過去だけではない。父親の、祖父の、僕が生まれてもいなかった昔の記憶がここへ来て意味を持つようになった。
こんな人間、他にはいない。糖尿病を持って生まれたことも、病気で苦しんだ半生も、足を切断して身体障害者になったことも、また最終的に病気を克服したことも、全ては現在地への伏線だったのか。
最悪の結末こそ回避できたけど、これで終わりではない。むしろこの先が肝要だ。
僕は義足ではあっても動くことができる。手術した目も細かい文字が見えるようになった。だいいち気持ちに余裕があるから冷静にものを考えられる。
身も心も健康になれたからこその心境であろう。
神様が与えてくれたこの幸運を無駄にするわけにはいかない。だからお世話になった人に手紙を送って旧年を締めくくった。
新年が変化の年になることを願わずにはいられない。